NHKで、瀬戸内寂聴さんが東北地方の被災地で行った説法の様子を放映していた。その中で印象的な場面が2つあった。
一つは、聴衆の心をとらえた快心のヒット、もう一つは豪快な空振りのあとのポテンヒットだった。
快心のヒットは『苦』を説いた場面だ。
津波の被災地で、惜しまれるいい人がたくさん亡くなった。説法を聴きに来た人の中に、家を流され肉親を失った人がいた。
寂聴さんは「どうしていい人が亡くなるのだろう。いい人が死んで、悪いやつが生き残る。理に合わない。でもそれがこの世だとお釈迦様は言う。『だから、この世は苦だ』とお釈迦様は話した。私たちが生きているのは、そういう世だ。そこで生きなければならない」そう説いた。
豪快な空振りは、福島県飯舘村の主婦から喫した。寂聴さんのバットが捉えられなかったのは『農村の生活』。仏教の得意範囲もよく見えて、微笑ましかった。
飯舘村の村民を前にした寂聴さん。硬い表情の聴衆の一人の肩を揉んで、和ませた。
村民の主婦が「一生懸命やっていた農地がだめになった。生活が奪われた」と嘆いた。
神道の文脈で聴けば、主婦の「生活」は、「命」と同義語。自然に感謝し、自然に生かされ、自然の一部となって生活する生き方が、日本の「農」だ。だから農地は単なる道具や家財ではないし、人間も自然と切り離される存在ではない。田舎で生活すれば、それは自明だ。仏教の『執着』では、噛み合わない。
しかし寂聴さんは『執着』で立ち向かった。
「失ったものはあるが、それは失ってもほかのものがある」と説いた。
当然、空振りだ。
納得できない主婦は「農村の生活は自然と一緒です。農業が生活でなんです」と2球目を投げ込んだ。
そこで老練の寂聴さんは「そうだね」と、『無常』で主婦の苦しみを受けとめて、2球目をポテンヒットにした。
寂聴さんが初球で空振りしたのは、村民の苦しみが『地震』や『津波』によるのではなく、『核物質』という人類には付き合いの浅いものが原因だったからだ。住民は地震や津波など自然の苦しみは納得も諦めもできて対処もできるが、『核物質』の苦しみには納得も諦めもできない。
寂聴さんは初球を空振りしても、快心とはいかないがヒットは打てた。
だが、住民が前に進むには、住民自身が放つ快心のヒットが欲しい。どうすればいいのか、番組を見ながらそう考えた。
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