2011年10月12日水曜日

大きな問題を素通りしていないか?=9・19「さようなら原発 5万人集会」

9・19「さようなら原発 5万人集会」で語られた言葉は、真直ぐに心に響く。
その通りである。  発言要旨9・19「さようなら原発 5万人集会」

大江健三郎さん、落合恵子さんなど有名人も呼びかけた原発をなくそうという集会だ。
全国から6万人が集まったとの主催者発表だった。一人ひとりの意思表示は尊い。福島県からも多くの人が参加した。

しかし、違和感もある。
集会では語られず、素通りされた放射能汚染物質の最終処理策の問題。
放射能汚染を引き受けようという意志のない、集会参加者の姿に違和感を覚えた。

集会でのメッセージを読むと、だれも放射能汚染物質の最終処分場を引き受けようと発言しなかった。原発事故の収束の最終的策を、他人事のようにしか考えない姿がそこにある。被害者として声を上げた福島県からの参加者も同列だ。

私達が直面している最終処分や廃炉は、推進派も反対派も脱派もさよなら派も関係なく、現在原子力発電所の電気を利用している全ての人の問題として、厳然と存在している。

集会参加者のアピールからは、問題の解決を他人に押し付ける頑なな姿と、正面から向き合わない無責任を感じる。事故処理の最終問題を深く考えず底が浅い。
過酷な福島第一原子力発電所事故を経験しているのに、体験の深化を反映しないのは、いったい何故だろう。

せめて、文学者として集会を呼びかけた大江健三郎さんだけでも『私たち一人ひとりが、自分の住んでいる場所に、放射能汚染物質の処分場を引き受けるために立ち上がろう』と語るべきではなかったのか。
膨大な放射性物質と放射能汚染物質の存在を、他人事のようにしか考えない6万人の姿から新たな未来への展開は見えない。

膨大な放射性物質と汚染物質は、私たちの問題でもあるという痛切な深省がない。
「トイレの無いマンション」と、都会人らしい表現で原発の限界を語る人々の言葉にも同じ根深い病根がある。

「本土で基地移設を君は語るが、その前に、私達の頭を踏みつけている君の足をどけて欲しい。」
雑誌にあった沖縄県民の言葉だ。
基地移設を脱原発に置き換えると、本土と沖縄、関東と福島の関係が同じ状況であることを表す文章になる。

沖縄で基地に苦しむ人達が、本土で平和を旗印に深省なく反基地を語る人に対するのと同じ思いを抱く。