2011年5月5日木曜日

原子力発電所の事故を考える時、忘れてはいけない事。

 原子力発電所の事故を住民の視点から見るとき、忘れてはいけないことがあります。
 住民は経済的な理由だけで原子力発電所を受け入れていたのではありません。安全だと言う、国と東京電力を信用していたのです。

 まず、経済的な側面を見ましょう。 
 福島県は近世以降、首都圏(江戸)に農産物、海産物、工芸品、エネルギー、そして労働力を供給してきた地域です。第2次世界大戦で負けた直後は、疎開してきた首都圏の人達を受け入れた事もありました。
 いわきや相馬双葉地域も水産加工品、農産品、木炭、石炭を供給し、大戦間以降は化学工業製品も供給してきました。福島県全体と同じ、首都圏と互恵関係です。

 大きな変化が出たのは、1960年代でした。石炭産業が日本のエネルギー源としての主役から姿を消してしまったのです。木炭も、家庭の熱源から姿を消しました。
 地域経済は大きな柱の一つを失いました。

 いわきでは、1960年代に常磐炭鉱が火力発電所を作って、石炭を燃やし電気にして首都圏にエネルギーを供給したり、巨大な観光施設で雇用を作りました。70年代には、工業団地に工場を誘致しました。200海里で遠洋漁業が大きなダメージを受けたものの、人口減少には歯止めがかかりました。

 しかし双葉地域は、60年代に雇用を大きく確保する産業を育成できず『福島のチベット』と、地元住民が言う状況でした。職を求めて出稼ぎをしたり地域外へ出て行く姿が多かったのです。

 東京電力は50年代は福島県で水力発電を推進し、60年代は原子力発電所建設の準備を進め、70年代に入ると原子力発電所の建設を始めました。福島県は、首都圏にエネルギー供給を再開しました。地域に新しい産業が誕生したのです。
 発電所建設で雇用が生まれ、発電で雇用が維持されました。やがて高速道路が通り、世界的なサッカー施設もできました。出稼ぎしなくてよくなり、地元で就職する事もできて、原子力発電所は、発電開始から40年を経て地域にとって大切な存在となったのです。
 原子力発電所の事故を考えるとき、忘れてはいけないことです。

 もう一つ忘れてはいけないことは、住民に国と東京電力が信用されていた事です。

 70年代に入ると原子力発電に疑問の世論が形成されました。原子力発電は危険だと反対する議論が出て来たのです。住民から見ると、後だしジャンケンのようであり、反対論は玉石混交の議論でした。野球なら外野と言うより、球場の外から野球の試合をじゃまするような議論に見えるものもありました。

 その時、国と東京電力は原子力発電を推進するために、県や発電所立地町村の自治体と住民に、原子力発電所は安全だと説明し説得しました。
 なぜ安全なのか、どうやって安全を維持しているのか、さらに安全性を高めるためどうしているのか、沢山の事を住民に説明し約束しました。国と東京電力が安全性を広報宣伝した内容を、住民はしっかり覚えています。(このとき約束した水準の環境を取り還す事が、事故後の現在、住民が目指す目標です)

 住民は原子力発電所を受け入れるにあたって、経済的な理由だけで決めたのではありません。安全だと言う国と電力会社の説明があったから受け入れたのです。
 原子力発電をめぐる激しい議論のなか、国と東京電力を信用したのです。

 これは国にも東京電力にも、そして住民にも重い事なのです。

 しかし、東京電力は何度も事故のデータを隠したり、報告をすぐしなかったりなど約束を破る事を繰り返しました。そして、違反が指摘されるたび、地元自治体や住民に繰り返さないと約束してきました。
 津波の危険性も、東京電力の社外の国会や地震学者ばかりでなく、自社の社員が国際学会で報告していた事実も明らかになっています。東京電力の言う『想定外』は、知っていながら行動を起こさない、都合が悪いからカウントしないだけの『ご都合主義』とイコールでした。
 そして、今回の事故です。

 この過程を見ると、事故の責任は国と東京電力にあるのでしょうが、本当に国と東京電力だけが100%悪いのでしょうか。
 私たち住民は、国と東京電力に安易に任せ過ぎていなかったのか、信用できない相手を安易に信用してしまったと、反省する余地は全くないでしょうか。須賀川の農民に、原子力発電所事故から避難の途上で亡くなった人々に、私たちは100%被害者だと言いきれるでしょうか。

 広島の原爆記念碑には「あやまちはにどとくりかえしませんから」という碑文があります。
 福島原子力発電所事故の碑文を刻むとしたら、広島と同じような人類の歴史に位置づけて記すべき言葉は何か。

 しかし、今はとにかく先に進まなければ、住民に未来はありません。
 未来は過去からやってきます。そして、過去は未来によって変える事ができます。
 感謝すべき事からも不愉快な事からも目をそらさず原子力発電所と事故を直視し、何故こうなったのか、どこに向かうべきか、互いに自立した主体として、原点を確認して歩み出すべきだと思います。

 (馬上 雅裕)