20年ほど前、大熊町役場に行った時の話しです。
役場の2階で人を待っていると、正面にあるカウンターのむこうで職員が大きな声で話しているのが聞こえてきました。
周囲を気にしない声の大きさと話しの内容が、バランスを欠いていたので印象に残りました。
話し手は、町の職員でした。
「東電の社員は、スケールが大きい。我々の物差しでは計れない」
「調べに行ったら、東電は悪いとすぐ認めた。それから、『やった事は無い事にできない。だから町では、会社に幾ら金を出させるか考るのが大切だ』と言う。東電の社員は、本当にスケールがでかい」
要するに、東電が町との約束を守らない事をして、大熊町の職員が調査のため東電社員に会いに行ったら、「これをネタに、いくら金を要求できるか考えなさい」と東電の社員にアドバイスされた。それは予想外の話しで、『東電社員のスケールは、我々とは違う』と何度も言って、感心しているのでした。
大きな声で話せる内容かと神経を疑いましたが、周囲を気にせず話していました。
大熊町にある東電の施設は、原子力発電所関連です。
原子力発電所で起きる深刻な事故は、お金では解決しないものです。
深刻な事故は、ある日、突然起きません。小さな事故の積み重ねの中から起きてきます。
その職員は、違反を『金』で解決しようとする東電社員に対して、疑念や違和感ではなく、『スケールが違う』と尊敬の念を抱いたようでした。
原子力発電所のある町は深刻な事故に向かう弛みを、日常の中で小さな積み重ねの中で、東京電力と一緒に作っていたと思うのです。
県や町は、何があったか全部吐き出さないと、未来に安全はないと思います。
安全が無ければ、原子力発電所の未来もありません。
原子力発電所事故で、電力会社や国、県、市町村が問われているのは、自浄する力です。
人類にとっての核という視点から見れば、脱原発路線に転換するにしても、維持するにしても、問いに答える責任はどちらにもあります。