2011年11月27日日曜日

寂聴さんヒット2本。うち、1本はポテンヒット。

NHKで、瀬戸内寂聴さんが東北地方の被災地で行った説法の様子を放映していた。その中で印象的な場面が2つあった。
 一つは、聴衆の心をとらえた快心のヒット、もう一つは豪快な空振りのあとのポテンヒットだった。

 快心のヒットは『苦』を説いた場面だ。
 津波の被災地で、惜しまれるいい人がたくさん亡くなった。説法を聴きに来た人の中に、家を流され肉親を失った人がいた。
 寂聴さんは「どうしていい人が亡くなるのだろう。いい人が死んで、悪いやつが生き残る。理に合わない。でもそれがこの世だとお釈迦様は言う。『だから、この世は苦だ』とお釈迦様は話した。私たちが生きているのは、そういう世だ。そこで生きなければならない」そう説いた。

 豪快な空振りは、福島県飯舘村の主婦から喫した。寂聴さんのバットが捉えられなかったのは『農村の生活』。仏教の得意範囲もよく見えて、微笑ましかった。
 飯舘村の村民を前にした寂聴さん。硬い表情の聴衆の一人の肩を揉んで、和ませた。
 村民の主婦が「一生懸命やっていた農地がだめになった。生活が奪われた」と嘆いた。
 神道の文脈で聴けば、主婦の「生活」は、「命」と同義語。自然に感謝し、自然に生かされ、自然の一部となって生活する生き方が、日本の「農」だ。だから農地は単なる道具や家財ではないし、人間も自然と切り離される存在ではない。田舎で生活すれば、それは自明だ。仏教の『執着』では、噛み合わない。
 しかし寂聴さんは『執着』で立ち向かった。
 「失ったものはあるが、それは失ってもほかのものがある」と説いた。
 当然、空振りだ。
 
 納得できない主婦は「農村の生活は自然と一緒です。農業が生活でなんです」と2球目を投げ込んだ。
 そこで老練の寂聴さんは「そうだね」と、『無常』で主婦の苦しみを受けとめて、2球目をポテンヒットにした。
 
 寂聴さんが初球で空振りしたのは、村民の苦しみが『地震』や『津波』によるのではなく、『核物質』という人類には付き合いの浅いものが原因だったからだ。住民は地震や津波など自然の苦しみは納得も諦めもできて対処もできるが、『核物質』の苦しみには納得も諦めもできない。

 寂聴さんは初球を空振りしても、快心とはいかないがヒットは打てた。

 だが、住民が前に進むには、住民自身が放つ快心のヒットが欲しい。どうすればいいのか、番組を見ながらそう考えた。

2011年11月26日土曜日

東電社員のみなさんへ質問=あなたは何のために電気を販売しているのでしょう

 2011年6月20日に清水正孝社長(当時)が退任すると表明したときに、東京電力の悪い面を『目線』と答えていました。

 「変えなければならない風土として、地域の皆さま、お客さま、株主、そういった方々への目線、マーケットインの考え方を失いがちなところがあります。そういった傾向が強い。まだまだ、外に向けての目線の高さを指摘されます。お客様志向を徹底する必要があります」
 また良い面は、「電力の安定供給を何が何でもやり遂げる点」を上げていました。

 東京電力は、経営者も社員も労働組合も責任を免れない、『原発事故』という重い罪を地域住民に対して犯しています。この罪に『金』『権力』など姑息な策は通用しません。放射能で地域を汚染している企業犯罪の根本的な償いは、企業再生しかありません。

 しかし東京電力は裁判で、原発から飛び散った放射性物質は東電の所有物ではない。原発事故で排出した放射性物質は汚染された土地所有者のものであり、東京電力に除染の責任はないと主張するなど、原子力発電所運転や原発事故に対する姿は、私達地域住民の目には『狂人が刃物を振り回している』ように映っています。

 そこで、清水正孝社長(当時)の指摘に東電社内に賛否はあるでしょうが、的を射抜いていると考える東電社員のみなさんへ質問します。
 清水正孝社長(当時)は東京電力の良い面は「電力の安定供給を何が何でもやり遂げる点」と話していましたが、みなさんは『何のために、電力の安定供給を何が何でもやり遂げる』のでしょうか。

 経営者は何のために経営しているのか、社員は何のために働いているのか。根源的な問いを自身に問い、自身が答える事なしに再生は無く、償いも許しもありません。
 東京電力が東京電力を東京電力の中から生み出さなければならないのです。